外国ルーツの子どもたちの支援制度を立ち上げるきっかけとなる、ブラジルとの出会い

前回、ブラジル出身のタンさんが、オンラインレッスンで自信がついて流ちょうな関西弁があふれ出てきた話をしました。

今回は私梅本がどういう人間で、どうしてこの仕事をしているのか、お話させてください。

人生の転機になるような人や場所は、きっと人それぞれにあることと思います。

私にとって、それは地球の反対側、「ブラジル」にありました。

もしブラジルに行かなかったら、天職と思った小学校教諭を今も続けていたと思います。

私は下町生まれの3人姉弟の真ん中です。

小学校の時の担任の先生が大好きで、学生時代から小学校の先生になりたいと思っていました。

中高時代はキリスト教の女子校でハンドベルに熱中しましたが、大学では真逆の体育会系をやってみたくなりました。

「大学で一番厳しい、女子が入れる部活は何ですか?」と聞いて、ボート部に入部しました。

当時ボート部に女子寮がなかったので、男子寮の近くにアパートを借りて一人暮らしを始めました。そこは女子部員のたまり場になり、私設女子寮のようになりました。

8人乗りのボートは、気持ちを合わせないと進みません。

ボートを通して、チームで気持ちを合わせる大切さを学びました。

JICA(独立行政法人 国際協力機構)の日系社会青年海外協力隊(旧:日系社会ボランティア)に応募したのは、31歳の時です。

教員になって6年経っていました。

私は教員になる前にいろいろな経験を積んでおきたいと、北海道の酪農家のところに住み込みで働いたり、ブラジルの小さな漁村でボランティアをしたりしていました。

帰国後も漁村の小学校支援のチャリティイベントを運営する中で、日本在住のブラジル人と知り合い、ブラジル人コミュニティのあたたかさ、ブラジル愛の強さに感銘を受け、もっとブラジルを知りたい気持ちが強くなっていました。

仕事を2年弱休み、小学校教育という職種でJICAボランティアとしてブラジルに行くことになりました。

青年海外協力隊[JICAボランティア]というと、理数系教師や農村支援、スポーツ普及などのイメージを持つ方も多いかもしれませんが、私のミッションは「日本文化を伝える」「現地の教員と共によりよい授業を創る」ことでした。

派遣されたのはブラジルの北、アマゾンの近くでした。

南半球の北は、とても暑いです。

普段は気温が40度、雨期は20度後半〜30度。

スーパーフルーツのアサイーの産地で、熟れてくるとマンゴーが木から降ってきて車にぶつかるような熱帯の気候です。

私は日本語・音楽・体育の担当として現地の学校に派遣されました。

平日は幼稚園~中学校、土曜は日本語学校(子供~成人)になる学校に派遣されたため、大人にも日本語を教えました。

日本語が母語でない人に日本語を教えること自体が初めてでした。

日本から持ってきた授業資料は、実際の生徒を目の前にしてみるとそんなには役に立ちませんでした。

日本語に触れたことがない子どもや大人に、日本語が楽しいと思ってほしい。日本に興味をもってもらいたい。

それを目標に授業準備をするのは、大変でもあり、とても楽しいものでした。

学習発表会では中学生以下が日本語の歌を歌うことになり、子どもたちが曲を選び、子どもたち自身でポルトガル語の歌詞を作詞して臨みました。

目の前の生徒が関心を持っていることを注視し、興味・関心を学びに結びつけることで、いきいきと学んでいく子どもたちの姿を目の当たりにしました。

2年間の経験を通して、日本語教育に大きな関心をもつことになりました/もち始めました。

→「教員を退職し、株式会社を立ち上げるまで」に続きます。

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